【Ｉ】 　いささか旧聞に属するが、1994年8月にカナダ・エドモントンで開催された国際比較文学会第14大会プログラムは、世界187カ国に共存している約6000の言語文化集団のなかで民族的統一を保持しているのは10％にすぎないとして、国境の変質とグローバリゼイションの動きに対応した民族文化の比較文化的研究の理論と方法の大きな転換を示唆した。事実1980年代末期は以来東欧改革、ソ連邦の解体を契機として、ますます混迷を深めつつある世界情勢の中で、多民族・多言語国家の抱える民族・宗教問題が前景化している。かたや一元的でホモジニアスな国家とされてきたわが国の「単一民族国家・日本」という概念も、内在する複数移民族文化集団の存在が認識されるにつれてつき崩され、さらにまた都市化国際化の進展とともに多民族・多文化化への動きが、確実に駆動されつつあると言える。多文化主義　Multiculturalism　は、アメリカ、カナダ、ベルギー、オーストラリアなど多民族多言語国家において、そうした言語・文化を事にする多様な民族集団の存在をむしろ国家の大切な資産として積極的に認識し、政策化する試みのなかで生まれた。だが上部構造としての国家が、統合的な機能をハタしているように見えながらも、宗教、言語、文学、文化、教育、経済などのレベルにおいては、それぞれの言語地域間民族集団間の対立・分裂、多数者による少数者の差別や疎外が生じているという事実も無視できない。多民族多文化国家の問題は、政治経済法制度などの領域にもわたらざるを得ないが、ここでは公教育における言語・文化教育のあり方、多民族文化の維持と保持に関する政策、高等教育・生涯教育における多文化主義の研究教育体制など、民族集団のアイデンティティに関わる具体的な諸問題に限定し、わが国の国際化に即した文化政策のありうべき姿を模索しながら、その実態を解明することを目的としたい。
【II】 国境の実態が変質し、いわゆる文化圏とも即応せず、187カ国に約6000の言語文化集団が共存していかなければならない状況においては、文化や文学の研究に、これまでの単一文化、単一言語、単一民族国家モデルはもはや有効性を有しない。ヨーロッパは、「国境なき欧州」を目指して、言語・文化・民族を異にする各国を統合してEU欧州共同体を組織し、政治経済さらには文化活動の活性化を図る一方で、各地域言語文化の独自性を認識し、共存をはかる施策としてMulticulturalism「多文化主義」を進めようとしている。また級植民地国の多民族多言語地域では、民族国家としてのアイデンティティを求めて、果てることのない軋轢や試練に立たされている。政治的現実のなかでは、複数言語文化集団の共存を旨として「多文化主義」も、ときには少数民族集団のゲットー化といった負の役割を果たしてしまう危険性もあわせもつ、諸刃の剣ということもできなくはない。しかし、かたやこうした多元性によって確実に自出の文化の変容をせまられ、またマジョリティー集団の文化をも変容せしめずにおかないのが、この多元性である。今日ますます流動化多元化しつつある世界情勢のなかで、一部地域的特殊政体国家が排他的侵略的な動きを強めているとき、日本社会の普遍性と特殊性を見つめ直す上にも、「多文化主義」Multiculturalism/Multiculturalismeの成立と展開をたどりなおしておくことは、意義あることと思われる。