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多文化教育研究所
『多文化主義と言語・教育問題』(3)
【II】
したがって1867年以降はケベック州は、フランス語の伸張に不可欠と考えられる言語政策を無条件に採用する自由をもたない。逆に他の3州における仏系少数者にも、同様の権利擁護が均等にはかられてしかるべきであったが、それはこの2つの建国の民のあいだの力関係の不均衡によって実現されなかった。カナダにおいては少数派の仏系は、ケベック州以外の諸州に居住する仏系少数派のために同じ保証を獲得することに成功しなかった。かくして1867年の憲法は、二つの建国の民のカトリック・カナダ人と英系プロテスタント・カナダ人の共存というカナダの二元性を認める一定の認識を示すものであり、その仏系カナダ人は、二つの建国の民の間の平等な連合という二元主義の勝利をながらく期待し続けたが、この夢はその後一度もかなえられることはなかった。仏系でも英系でもない他の民族移民が何百万人もやってきて、カナダを多言語多文化国家に変質させてしまったからである。コンフェデレイション後の約百年間、すなはち1960年代のはじめまでは、ケベック州の保守的カトリック社会は、ケベック州内の英系少数派の権利をきわめて細心に尊重してきたし、憲法で定められている以上の特恵を与えてきた。事実この時代には、英系は英仏2言語をまったく平等に位置づけるほとんど全面的な2言語主義の恩恵に浴していた。実際ケベックの仏系は、ケベックにおいて多数派を形成しているという意識よりは、カナダにおける少数派としての意識のほうが強く、他の英系諸州でも仏系少数派に同様の扱いをしてくれることを期待して、かれらの英系少数派にできるだけ有利な処遇を与えていたというのである。
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